LobLoy’s diary

現実日記・妄想日記・夢日記

Sの場合

f:id:LobLoy:20160121202554j:image

「また崩れてしまったか。交互に呑むのはやめて、カードで決めよう」

「悔しいですね。これで間違いないと思うのですが、上手くいかないな」

「慌てなくてもいいじゃないか。残念だけど、脳みそを作るには良い夜だ」

数年前に僕が通っていたBARの話だ。

バーテンダーのSはサウザ・テキーラのショットグラスに小さな脳みそを作ろうとしていた。そのカクテルに名前があるのかは知らない。僕らはそれを脳みそと呼んでいた。ショットグラスにリキュールを幾つか注ぐ。注ぐだけでステアはしない。リキュールは液体の重さがそれぞれ違うので、最後に重たいリキュールをゆっくりと下部に沈めて完成する。その最後のリキュールの積み重ねた塊が小さな脳みそに見えるのだ。
脳みそを作る日は、零時を過ぎて一際静かな夜が多かった。要するに空いている日だ。脳みその夜、僕の立場はいつも曖昧だった。座った席は22時過ぎから少しも変わっていない。ただ僕という客が1人の傍観者へと置き換わる。Sはこちらへ笑顔を作るのをやめ、面白い小話も連れてこない。店内は音楽すらなく、夜のしじまとなる。止まったCDトラックさえ、彼は気に留めなかった。Sは透明なグラスをカウンターテーブルの端に幾つか並べ終えると数種類のリキュールをその傍へ置いた。

Sは始めにショットグラスの7割近くを手早く数種類のリキュール(または、スピリッツもあったかもしれない)で満たした。いつも問題は過程の最後だった。体操競技で最後の大技の前で一呼吸する様に、彼はいつも深呼吸をする。彼が最後に選んで使うのはクリーム系のリキュールだった。右手でその甘ったるいボトルの首を掴み、逆さにする。大きな親指の腹でその口をキツく塞いで、液の通り道を塞いでいる。指先を僅かに動かして、その隙間から一滴ずつリキュールをグラスに落としていく。集中している合間、いつもSは息をしていない様に見えた。ただ眺めているだけの僕にも薄っすらと緊張感が生まれる。風のない森で木の葉から落ちる雨露の音を探しに来た様な気分だ。時間をかけ、親指を微かに動かしながら、リキュールを一滴一滴、慎重にショットグラスの底へ落とし、重ね合わせていく。グラスの下部に脳みそを浮かべようとしているそんな彼の姿がテーブルの向こう側に居た。

Sはそれらのリキュールの注ぐ順番を幾度となく変え、時には適さないと判断したリキュールを切り替えた。それでも、脳みそはいつも途中で崩れてしまった。
成功しない理由は彼の腕のせいではなかった。とても簡単な話だ。僕もSも脳みそを作り上げるのに必要なレシピを知らなかったのだ。彼のレシピは薄っすらと脳裏に留まった過去の残像だった。きっとカルーアは使っていた。いやベイリーズだったろうか。本当に市販のリキュールだったか。終売の柑橘リキュールは本当に必要なのか。個々の液体を包む瓶を、分離した液の層に必要な重さを、始めから僕らは知らなかった。

ある時、あるバーテンダーが彼の眼の前で、脳みそを作った。Sはその再現を試みていた。再現の為に、僕等は崩れかけた脳みそを二人で何度も喉に招いた。結局、SがそのBARで働いていた間に、脳みそが完成する事はなかった。

「Sは、今どこに居るか知ってますか?」

先日、友人と会った時に、彼からSの事を訊かれた。彼はSと同い年で仲が良かった。Sが店を辞めてからも1年ほどは僕等も会っていた。最近になって連絡がとれなくなったそうだ。Sが何処に居るか僕にはわからないし、連絡もとっていない、と伝えた。

「急ですよね。何かあったのかなと気になって」

「放っておいてあげたら良いんじゃないかな」

「え?」

「誰にだって、そういう時はある」

テーブルのコーヒーが冷めていたので、彼はもう一度、注文をし直した。

そういう時がある。誰だって笑えない日がある。誰とも話したくない時間もある。酒も音楽も要らないことだってある。誰にだって、そういう時はある。