綾香の場合
3階建てのカフェの喫煙席。
コーヒーカップにスプーンを当てて、無闇に音を鳴らしている男がいる。僕のことだ。
その向かいで僕とスプーンを無視して、何かを喋っている女が綾香である。
彼女がうるさいからやめろと言うので、とりあえずスプーンを手から離した。
途中から向かいにいる綾香の話を仕方なく聞き直すことにして、スプーンとの形而上の別れに切なさが溢れているのが……まあいいか。コーヒーをちゃんと飲もう。
はっきりさせておくと、僕は綾香のことが好きだ。言葉にすると誤解が生まれそうだけど(当たり前のことか)コーヒーを飲みながら綾香の話を聞く機会は少なくないし、嫌いじゃない。彼女の声は、僕にとって落ち着く声音をしている。
特に気に掛かる身なりでもない。人間性もほどほどで、お互いに気遣い合う事もない。僕等は学生の頃から、この調子でいる。僕は綾香を異性として感じる事は少ない。愛していたり恋煩いする事もない。
だから、良いことかどうかはわからないけれど、僕等はずっと友人でいられたのかもしれない。
「生きていくのに必要なものは何かってこの歳にもなると考えるのよ」と彼女は言った。
「そうか。んー、そうか。それで?」と僕は言った。
「あれ?考えない?」
「んーわからないけど、綾香は何が必要なの?」
(スプーンを持つと、彼女の目が細くなったのでもう一度手放した。)
「考えてはいるけれど、わからないのよね。迷うと言うか、身体は1つだけでしょう。明日、ピアニストになるって言っても無理なのはわかるわけ。でも、この歳になっても選択してみたい生き方はたくさんある。でも全部は出来ないから、まず1つを選択する。その中で必要なものは何かって考えてるの」
「じゃあさ、生きていくのに必要なものは、仮にこのスプーンだって事にしよう」
「は?」
「はい、どうぞ。持って。よし」
僕はスプーンを綾香に渡し、自分の右手と左手をテーブルの上にのせ、瞼を閉じた。
「何してんの?」
「静かにして。死んでいくところだから。そのスプーンは僕の生きる糧だと思い込んだら、きっと僕は死んでしまうはずだ。今、僕は生きていくのに必要なものを君に取られてしまったわけだろ。もう生きていけないんだ。生きていくのに必要なものが手元に無いんだよ。うぅ……うぅぅ。あぁ、まずい!綾香、まずいよ!見てくれ!僕は生きていくのに必要なものがないんだ!!」
「あんた、本当に馬鹿よね。良いなぁ。アホは」
「どっちかにしなよ。まぁ何だ、生きていくのに必要なものが見つからなくても、この世から急に消えてしまうわけじゃない。ゆっくり考えたらいいよ。結婚したら?」
「うるさい。その選択はもう期待してない」
「んーそっか。あ、僕は空が飛びたいな」
「鳥になりたいの?」
「嫌だよ、鳥なんて。鳥よりずっと飛ぶのが遅くてもかまわないから、僕は飛べる人間が良い。言葉も好きだし、人間ではいたい。生身で空が飛んでみたいんだよ。いつか僕はできると思ってる。いつかこの身体1つで飛べる日が来るのを待つんだ」
「私は飛行機で十分だわ。やっぱアホね」
2人で、とりあえず口元の小休止をとる。彼女はストローを唇に当て、僕はコーヒーカップに口元を寄せる。
「あ!」と僕らは一緒に声が漏れた。
「あんた……」
綾香は少しうつむいて、額に右手の甲を当てた。
「うん。見つけちゃったな、先に」と僕は言った。
「やっぱり、そうなるわよね」