釣り人
賭博場の片隅。
赤い水溜りが映えた。
小柄な男が突っ立っている。
真冬の雨が彼の体に重なって、足元には見知らぬ男の身体が寝そべっていた。
赤く染まった物体を見つめ、男は小さな身体を震わせた。
物体は動かず、彼の問い掛けにも答えることはなかった。
男はその物体の名前さえ知らなかった。
手にしたナイフが右手から滑り落ちた後も、男の影が白昼夢の末端に触れることは出来なかった。
妻の顔が浮かび、嘆く傍、服にこびり付いた煙草の匂いが雨にさらわれていくのを見届ける。
まだ夜と出逢う前の出来事だった。
男は懺悔し、牢に身を置いた。
牢屋の中で暮らしても、世の中は変わらなかった。
彼の居るべき場所で誰かは米を作り、誰かはスカートやブラウスを縫った。
どうでもいい土地が売れた。
海が荒れても誰も死ぬことはなかった。
彼の妻は、ただ彼を待った。
束の間の2920日が過ぎた。
彼はいつのまにか片目の視力を失っていた。
片目の彼が、愛すべき人に顔を合わせたのはずっと後になってからだった。
妻の顔にふれ、左目で彼女の顔を眺めた。
彼は陽光を浴びながら、釣りをする。
身体だけは動いていた。
妻の顔に手を触れ、30年が経った。
彼は春を迎えると、いつも魚を寄越す。
港町に春が訪れた事を教えてくれる。
今では風化した義理と敬意の為に。
償われない事も解して、ただ釣りをする。
次の冬まで涙を落とさなくて良い様に。