旦那の場合

 

「酷い病院に居たんだ。彼処から逃げ出せたのは俺ともう1人だけだった。今から会う奴がそいつなんだよ」と、旦那は僕に言った。

隣に居た彼は、煙草に火をつけた。顔を正面へ向けたまま、僕には目も合わせず話し始めた。彼は空を見ているようで、見ていないようでもあった。

『何が酷かったの?』と僕は訊ねた。

僕も旦那の事を見ないで話すことにした。

「その精神病院の中で、俺は薬中になった。モルヒネとまではいかなかったが、抗鬱剤なのか何なのか。薬をただ飲み続けて、神経が壊れたまま1日1日を過ごすんだ。その中で何人かの仲間は、病院を出ることもできなかった。俺らがその病院に居る合間にどんどん死んじまったよ」

『そしたら今日会うのは、カッコウの巣の上に出てくるチーフみたいな人なんだね』と僕は言った。

「本当にその通りだな。頭を開けずにできたロボトミーみたいなもんだった。けど、なんとかこうして2人とも今では病院の外で話ができるわけよ」

旦那は随分昔、ある人に酷く裏切られたらしい。その人を信頼していたのかどうかは知らないけれど、裏切られて彼の精神は社会に逗留することができない状態になった。その頃、彼を助けてくれた人達や仲間が何人か居て、チーフもその一人だった。今でも彼はその人達を大切に想っているそうだ。

彼の経験や、当時の心の壊れ具合を聞いても、僕には分からない事が多い。今の旦那はそんな過去が想像つかない程、楽しそうに生きている。それに僕は他人に裏切られ、忘れられない思いをしたという経験が少ないからーそこまで少なくない気はするけれどー理解しきれないのかもしれない。

僕の軌跡には、信頼できる赤の他人が数人居た。誰かに裏切りや嘘を投げつけられても、そんな人ばかりじゃないと、直ぐにその人達の顔を思い出す事が多い。でも、僕は彼らの様に誰かに信頼されうる人間性を獲得する事はできなかったなぁと思ってしまったりする。今、僕がどの様に彼の目に映るのかは知らない。僕自身の言葉や存在が、今の彼には手助けになる必要は無いのだけれど、今の彼が悲しくならない程度のモノであったなら良いと思った。

「お前もいい歳だしな。うちの娘、どうだ?結婚してもいいぞ。俺が言うのもなんだが、けっこうな美人だぞ」

彼が冗談めいた声で、僕の顔を見ながら言う。きっとチーフも喜ぶだろうなと思った。僕は旦那の顔を見る。そこにはいつもの彼がいる。

 

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