ゾーイとズーイ
本を片手に、風呂の中でプカプカと浮いているのが好きだ。
生温く、冷めた湯槽でも構わない。
水中にいるだけで安心感が芽生える。
その度に犠牲になる本は、新潮文庫が筆頭で、カミュとサリンジャーには申し訳なく思ったりもする。
久々に風呂で『フラニーとゾーイ』を読もうとしたら、本棚に居なかった。
仕方なく電気を消して、ただ天井を見上げたまま浴槽で眠った。
以前、僕が水中に沈めた『フラニーとゾーイ』は処分していたようだ。
無くすことも多くて、別れた『フラニーとゾーイ』は5冊くらいになるけれど、再会したくて肺の辺りがソワソワした。
というわけで、本を買いにジュンク堂に来たのだけど、本棚にあるのはフラニーと『ズーイ』だった。
訳者は、村上春樹さんになっていて、本の厚みやデザインも変わっている。
店員さんにお願いして、ズーイになる前の作品が置いていないか調べてもらった。
訳が野崎孝さんのものは古書扱いになっていて、数年の間に全てのゾーイはズーイになってしまったそうだ。
村上春樹さんの訳が嫌いなわけじゃないけれど、出会った頃の翻訳って、なかなか譲れなかったりする。
レイモンド・カーヴァーや、フィッツジェラルドの作品は許せても、15歳の僕が読んでいた『フラニーとゾーイ』は、やっぱり変えたくなかった。
そんなこんなで旧版が古本屋でも見つからなかったから、僕はBARカウンターで話をしながら、携帯電話の画面を眺めている。
「新しい訳じゃダメなんですか?」
「学生の頃、好きだった女の子が、その頃こうだったとかって思い出すとしてさ。今は当時よりもさらに素敵な人になっていても、やっぱりその頃の彼女が好きだって思い出すわけで、そこは変わらないんだよ」
「大切なのに、お風呂に沈めて捨てちゃったんですね」
「ごめんなさい」
これから先、浴槽に沈んでしまったとしても『フラニーとゾーイ』は、絶対に捨てないと誓い、ア○ゾンで旧版を購入した。
「あ、電子書籍じゃダメなんですか?」
「んー、やっぱり本が良いなぁ。変えたくないものってあるじゃないか」
そうでしたね、と言って、彼女は静かに笑った。