軌跡階段

僕と麗子は、白い階段の前にいる。私が作った階段なの、と麗子が言った。辺りは真っ暗だった。暗闇と言うより、ただの黒い空間のように思えた。彼女の姿は見える。もちろん階段も見えていた。そして、止むことのない緑色の紙吹雪が頭上から延々と降っている。でも、それ以外は何も見えなかった。全く理解ができないよ、と僕は彼女に言う。彼女が僕にあっさりした答えや、ヒントを示してくれるのだと淡い期待があった。でも、薄っら笑みを浮かべた麗子は僕の方を向いて「上りなよ、階段」とだけ言った。

右足を階段にのせる。続いて左足ものせた。1段目に立つと15の歳の記憶がよみがえる。僕の左足首には汚れたミサンガがついている。前髪が耳の付け根よりも下に伸びていて、バスケットボールをゴールへ投げる時には苦労しただろうなと思う。病気の母親は随分とやせ細ってしまった。僕は色々と失ったものや、傍らにいた人、自分が好きだった映画、いつも1人で何も言わずにパンやバナナを規則的に口へ運び、彼の眼が本当は何も見ようとしていない様をずっと眺めていた。

階段を上がるに連れて、僕の記憶は16、17、20の歳と、次々に引っ張りだしてくる。階段を上る度、頭に鈍い痛みが走る。トンカチで軽く小突かれる様な痛みだ。でも、どうって事はない。このまま階段を上り続ければ、回顧は今の年齢に達するのだろう。階段を上るに連れ、母親の姿は消えた。記憶や想いも薄れていく。そして、僕が大切に想う人や、人生について考えていたことの幾つかや、好きな映画、吸う煙草の銘柄が変わって、身体についた傷跡が消えにくくなっていくのを眺めた。

僕は途中で上るのをやめて、階段をひき返すことにした。歳を重ねる事が嫌になった。そして、15歳から軌跡を変えてしまいたいと感じていた。その階段で過去を変えることなんて出来やしないのに、15の歳まで階段を下った。

僕は階段から下りずに1段目で立ち尽くした。
「どうしたの?」と麗子が僕に訪ねた。
「もっと上手にやれたのかなって」と僕は足元の白を見つめながら言った。
「やり直したいの?」と麗子は訊ねて、何も言わない僕を黙ったまま見ていた。彼女が僕を見ているのが何となく分かっていた。でも、彼女がどんな顔をしているのかまでは分からなかった。気になって僕は彼女の方を向いた。

僕は暗闇に自分が居る事も忘れてしまったのだと思う。彼女の顔を見たら、何て説明したら良いか分からないけれど「やっぱり……」と僕は口に出しかけた。でも、直ぐにその言葉を飲み込んだ。そして、彼女を見たまま階段から足を下ろした。