サルトルを飾る

 

僕には本が好きな友人と、本がそんな好きじゃない友人がいる。本が好きじゃなくても、大してかまうことじゃない。でも、今日は本が好きな人間の話。

どんな本が好きなのかは人それぞれで、僕と会う度に哲学書の話をする者や、探している画集や写真集を僕に知らせて、古書店で見かけた時に買うよう求める者、村上春樹の話ばかりする人や、村上春樹だけは読まない人、日本文学を専門に愛する者や、ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡」しか読まない子と、みんな不思議と趣味が被らない。

ちなみに僕は海外文学が好きで、好んで読むのは短編小説。これも被らない。

だから、こうして新橋駅のSL広場で古本市をやっていて、レイモンド・カーヴァーの短編集を探している。そんな最中、ジャン・ポール・サルトルの本ばかり部屋に飾っている友人を思い出して、「嘔吐」を手に取る。どうして部屋にサルトルを飾っていたのかなって思いながら、パラバラと捲ってみる。僕が気にも留めない文章に沢山のマーカーが引かれている。

『各瞬間は行きあたりばったりに互に積み重なることをやめ、各瞬間を引き寄せる物語の結末に掴まえられる。……私は自分の生活の各瞬間が、人が追憶するときの生活の瞬間のように継起し、秩序立てられるのを望んだのだ。』

ル・クレジオよりは、早く読み終わりそうだ。

見知らぬ彼がサルトルの文章から抜粋した様に、僕も好きな文章の一つを見知らぬ彼に伝えたくなった。でも、僕は彼の事を知らないから、ただ記すだけにする。

『私は砂の上に寝そべって、そのひとつかみを手ににぎり、指の間からやわらかい黄色のひとすじの紐のように流し落とした。私はそれが時のように流れ過ぎて行くと自分に言い聞かせた。それは安易な考えだ。安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。だって夏だもの。』

余計なお世話になっちゃうといけないからね。

 

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