あの子の場合

 

あの子の夢を観た。彼女について覚えている事は多くない。直ぐに思い出せたのも、彼女の左胸と目くらいだ。僕は、彼女の名前が気になっている。

昼下がり、大体はベッドの上に居た。

「どうして左の胸が大きいの?」と僕が聞く。

「分からないけど、心臓があるからじゃないの」と彼女は言った。

『分からないけど、心臓があるから』という言葉を聞くのが、僕は好きだった。2人の身体が寄り添ってる時に、彼女が眠りにつきかけると、いつも同じ様に聞いた。僕が聞くたびに彼女は「分からないけど、心臓があるからじゃないの」と優しい声で答えた。

眠りから目を覚ますと、空は夜に落ちていた。いつからか分からない。目の前で横になったまま、彼女は僕を見つめていた。カーテンの隙間から、車のヘッドライトが不規則に部屋へ流れ込んでくる。彼女の目はどこか鋭くて、笑っていないと人間の冷たさが顔の表面に引っ付いているようだった。でも、僕はそんな彼女の目が好きだった。彼女は、目覚めた僕の頬に手を置いて、親指を優しく動かした。僕は寝ていない彼女を不思議に思って「寝ていないの?」と聞いた。

「目を見ていたの。出来ないのは分かってるけど、貴方の目と私の目を取り替えたい」と彼女は言った。

僕はその理由を聞かずに、彼女の左の胸に顔を寄せて、また眠りについた。そして、今でも彼女から聞いた言葉の理由は知らない。

僕があの子について覚えているのは、それくらいだ。彼女の名前は思い出せないし、軌跡を思い浮かべても、彼女の名前は分からない。

僕が住んでいた部屋のカーテンは青かった。真冬の夜には窓を開けっ放しにしながら、赤い電球を灯したまま眠りについた。友人の誰かが「冬になると、星がずっと近くなる気がする」と言っていた。

平日の昼下がりに、彼女は僕を起こしに来ていた。彼女はいつも来る時に、良い匂いがした。ランコムのミラクだ。その香りが好きだと伝えてから、彼女はいつも香水を持ち歩いていた。

きっと○○という名前だ。

また繰り返す。
昼下がりのドアが開く時から。

僕は彼女の目が好きだった。白い肌と、左右で大きさが違う胸と、彼女の匂いも。それは全部、彼女に伝えた事だ。きっと僕は彼女の名を呼んだはずだ。「なぁ…」と呼ぶ手前までは分かるのに、部屋に入った彼女は直ぐに鞄を置く。そして、ゆっくりと近づいてくる。目の前にいる彼女の顔、首元、鎖骨、そして、また顔の順番で見て、僕は彼女の首元に顔を近づける。直ぐに夜が来て、僕らは2人っきりになってしまう。そして「心臓があるから…」と彼女の声を聞く。

ずっとその繰り返し。

勘違いしたままの病気みたいに思う。僕が初めて君を知った時、その左胸も、目も知らなかった。君の名前だけだった。

 

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