マウラの場合

1
「私は帰ってこないよ、ジョバンニ。今日はナポリの試合があるの」

マウラが僕にそう告げた夜、ローマでは警察沙汰の凱旋が行われていた。
近くのトラットリアで唄うダリを窓辺から見た夜の深くで、赤い光と歌声が地鳴りの様に遠くから迫ってくる。
それを確かめてから窓をしっかりと閉め直して、僕は2度目の眠りについた。

マウラがドミトリーに戻ったのは翌日の深夜、または翌々日の始まりだった。
彼女は仕事を終えた後の顔付きで、6つあるベッドの1つにゆっくりと体を沈める。
仕上げにアルコールを求めた彼女の魂が、フレーバーウォッカとピーチリキュールを交互に内臓へ落下させていく。
間もなくして、規則的な息遣いと共にマウラは眠りについた。

彼女は翌る日にも、何処かへ向かった。
マウラの仕事が何なのか、僕には分からない。
ドミトリーに永く住まう彼女が、どこでお金を手にしているのかも知らない。
しかし、彼女はそこで生きていた。
サッカーを愛するがゆえに観戦し、ドミトリーでその日暮らしの生活を重ね続けている。

まだ結婚していた頃の話をマウラから聞いた事がある。
「子供を授かれば、ここには居なかったはずだ」と寂しそうに彼女は言った。
いつの頃かは分からないけれど、人生の岐路が彼女にも訪れた。
その選択によっては、サッカーの試合をローマで観戦する今の姿は無かったのかもしれない。
ナポリの片田舎でゆっくりと海を眺めて、マウラが笑う姿を僕は思い描いた。

2
ある日のことだ。僕らはカフェで話をしていた。
マウラは南伊の生まれで、愛する故郷について色々と聞かせてくれる。
彼女はパラソルの隙間から落ちる陽射しを時々眺めては、海の美しさを語った。
「行ってみたいな」と僕は言った。
彼女は急に席を立つと、部屋へ向かって走った。
埃臭い螺旋階段を駆け上がり、小さなリュックサックに荷物を詰め込んだ。
僕のエスプレッソが消える頃、彼女は舞い戻る。
「あなたに見せたいものは、いっぱいある」と彼女は言った。

僕はマウラと南へ向かう。
電車に乗ったマウラは乗車券の座席番号と、窓を確認する。
彼女は乗車券をポケットに突っ込んで、車内を歩き始めた。
幾つかの窓を眺めてから、ここで良いと言って、気に入った窓の側へ僕を押し込んだ。
南に向かう間、僕はマウラが選んだ窓から景色を眺めて過ごした。
何もない肥沃な緑だけが映っていく。
時折、僕は景色に見飽きるとマウラの顔を覗いた。
マウラは目が合うと笑い、また新聞に目線を落とす。
ナポリへ到着するまで、彼女が景色に目をやることは無かった。
それは、11月の昼下がりで、ひどく暑い日だった。
僕らは上着を脱いで腰に巻いた。
電車に飽きると、何もない海沿いの道を歩いた。
時折、彼女は見知らぬ人と話をする。
彼女が立ち止まる間、僕はリモンチェッロを口に運んで、教会でマウラがくれた見知らぬ聖母のポストカードを眺めた。

3
散策の途中、海辺で彼女が足を止める。
彼女の視線の先では数組の男女が岩場に寝そべって、身体を重ねている。
マウラはそれを黙って眺めた。
僕も彼女に釣られて海辺に目をやる。

眼前に広がる青は、ずっと遠くにあるかのように思えた。
波風は優しくて、世界の音が消える。
海辺を照らす陽射しは、どのカップルにも等しく熱を与える。
熱が全ての肌をひどく傷つけ、僕の両腕もジリジリと痛めつけた。
僕は海辺に横たわる彼らの顔を見た。
うるさい太陽と、重なり合う身体の幾つかは、互いにその海辺の中にあっても自由に時を過ごしている。
僕は陽射しに眼を細める。
マウラはそれを見て微笑んだ。

「ねえ、ジョバンニ……」とマウラは何かを言った。
イタリア語に疎い僕は、彼女の言ってることが分からなかった。

「何て言ったの?」と僕は訊いた。

「大切なこと」と彼女は言ってから、僕のメモ帳を手に取り、そこに何かを書いた。

「ジョバンニ。今、ここは世界で最も美しい。太陽があって、海がある。そして、平和と愛がある。それは、この世界で何よりも美しい」

「分かったよ、マウラの言いたいこと」と僕は言った。
マウラは首を横に振って、つまらなそうな顔をする。
僕は改めて返事を考えてみる。
彼女に伝えたくても、上手く言葉に出来ない。
少し時間をかけてから、僕は言い直した。
マウラはただ僕の目を見て、微笑んだ。
直ぐにマウラは海辺に視線を落とす。
そんな彼女の横顔は、美しかった。

その時からだ。
僕は、『美しい』と『綺麗』を使い分ける様になった。
今では口から美しいという言葉が溢れるのが、随分と少なくなった。
けれど、無くなったわけじゃない。

「分かったよ、本当に。でも、分かったことにしたくない。今日が終わってしまう気がする」と僕は言った。

マウラはしばらく海辺を眺めていた。
彼女はいつもの彼女よりも、どこか幸せそうに見える。
僕は陽射しがずっと消えなくて、リモンチェッロがあるなら、このままで良いと思い始めた。

「ジョバンニ。私はあなたと会えて嬉しいよ」
僕は聞いていないフリをした。
でも、それはあまり上手くいかない。
僕らは、2人で歩き始めた。

 

 

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